大判例

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東京地方裁判所 昭和43年(ワ)2575号 判決 1969年9月10日

原告

池田弥栄子

代理人

越山康

被告

大陸交通株式会社

代理人

鍛治千鶴子

復代理人

鍛治良堅

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

当事者双方の求める裁判

(原告)

「被告は原告に対し三五一万六〇〇〇円およびこれに対する昭和四三年三月二〇日以降支払い済みに至るまで年五分の割合による金員の支払いをせよ。訴訟費用は被告の負担とする。」との判決および仮執行の宣言

(被告)

主文と同旨の判決

第二 請求の原因

一  原告は、昭和四二年一〇月二八日午後四時一五分ごろ東京都渋谷区神泉町三一番地先路上において、乗車していた被告会社のタクシー(以下本件タクシーという。)が急停止した衝撃により、運転席と後部座席との間に設けられたプラスチツク製仕切板で前頭部を打ち、頭部外傷の傷害を負つた。

二  被告は、本件タクシーを保有し、自己のために運行の用に供していた。

三  原告は、右事故により次のような損害を受けた。

(一)  治療費等 六万円

原告は、事故発生日から東京都新宿区弁天町九一番地所在の晴和病院で右傷害の治療を受け、昭和四三年二月末現在において脳波検査料、投薬治療費合計三万円以上の支払いをなし、今後少なくとも六か月間に一か月五〇〇〇円の割合による合計三万円の投薬治療費の支払を余儀なくされることが確実である。

(二)  慰藉料 三〇〇万円

原告の右傷害による精神的損害を慰藉すべき額は、原告が頭痛、脳貧血様発作、精神の集中緊張維持困難、記憶力減弱などの後遺症に悩まされ、軽易な労務すらなしえない状態にあることに鑑み、右金額が相当である。

(三)  弁護士費用四五万六〇〇〇円

以上により、原告は、被告に対し三〇六万円を請求しうるところ、被告がその任意の弁済に応じないので、弁護士たる本件原告訴訟代理人にその取立を委任し、東京弁護士会所定の報酬範囲内で、手数料一五万円を支払つたほか、第一審判決言渡後に成功報酬として三〇万六〇〇〇円を支払うことを約した。

四  よつて、原告は被告に対し三五一万六〇〇〇円およびこれに対する訴状送達の日の翌日である昭和四三年三月二〇日以降支払い済みに至るまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

第三 請求の原因事実に対する答弁

第一項本件タクシーが被告会社のタクシーであることは否認し、その余は知らない。第三項は知らない。

第四 証拠関係<省略>

理由

一<証拠>によれば、原告は、昭和四二年一〇月二八日午後四時一五分ごろ、当時乗車していたタクシーが急停止した衝撃により、運転席と後部座席の間に設けられたプラスチツク製仕切板で前頭部を打ち、傷害を負つたことが認められ、右認定に反する証拠はない。

二問題は、右のタクシーが被告会社のタクシーであつたかどうかである。

(一)  本証<証拠>による立証内容

同日原告夫婦は、午後四時三〇分から東京都港区芝所在の東京プリンスホテルで行われる勉の教え子の結婚式に媒酌人として出席することになつており、午後三時ごろホテルから迎えの車が来ることになつていたが、約束の時間を過ぎても右車が来ず、電話したところ、料金を負担するからタクシーで来てほしいとのことであつたので、三時四〇分ごろ息子が同都世田谷区祖師ケ谷二丁目四四八番地の自宅に近い小田急電車祖師ケ谷大蔵駅附近で見付けて来た本件タクシーに乗車し、ホテルに向つた。本件事故は、その途上同都渋谷区神泉町三一番地で発生した。それは、本件タクシーが先行車の停止に続いて急停止したもので、接触したらしく、歩道上で双方の運転者が話し合い、本件タクシーの運転者が先行車の運転者に二〜三枚の紙幣を手渡すのが車内から見えた。原告は、見たところ、額の一部が赤くなつている程度で、他に別段異常がないようであつたので、原告夫婦は、そのままホテルに向い、午後四時三五分ごろ関係者一同の待つているところへ到着した。料金一二六〇円は、原告夫婦が支払い、ホテルには請求しなかつた。

ところで、原告は、娘のころ実家の車で事故にあつて以来、タクシーをできるだけ利用しないようにしており、やむをえず乗車するときは、運転者名や登録番号を控える習慣がある。本件の場合も、原告は、乗車後五分位して右仕切板に記載されていた広告文から「東京無線タクシー 三八二―五二一五 大陸交通株式会社 杉並区高円寺南町一五二」の部分を携帯していた懐紙に書き写した<証拠>のメモ)。右メモに運転者および登録番号を控えなかつたのは、車内表示盤が空白になつており、見渡したところどこにもその表示がなかつたからである。

なお、本件タクシーの道順は、正確にはわからないが、世田谷区若林を通過して事故現場に至り、そのすぐあとで高速道路に進入したことは確かである。もつとも、事故現場は、勉の記憶を手懸りに後日探しあてたのである。運転者の人相は、原告の記憶にはなく、勉の記憶によると、被告会社から示された・同日稼働した運転者全員の顔写真のうち番号三三番と五一番との二人が似ているように思われる。本件タクシーは中型で、空色系統の色であつた。

(二)  反証―<証拠>―による立証内容

被告会社は、同年一一月四日原告夫婦の息子から原告が本件事故により負傷したことを告げられた。被告会社では出庫にあたり、まず運転者自身が車を点検し、その結果を仕業点検表(乙第四、第五号証はその同年一〇月二八日および二九日付認可車両数六四両分)に記入し、次いで検車台に乗せて整備課長ほか三名が検査し、運転者は、稼働中、乗客中に発地、着地、人数、料金等を乗務詳細日報(乙第二号証はその同月二八日付六四両分)に記入し、終業の際、車の異常、事故発生の有無等を記入する終業報告書(乙第三号証はその同日付六四両分)とともに当直に提出し、事故があれば事故報告書を併せて作成提出することになつているのであるから、右乙第二号証からは勿論、追突事故発生の報告およびこれによる車の損壊の面からでも本件タクシーの割り出しは可能なはずであるが、当該車は全く見当らず、運転者らに聞いたところでも結果は同じであつた。

なお、車内表示盤登録番号および社名欄は固定され、運転者名欄はその都度運転者がネームプレートを挿入することになつており、これらが空白であることはありえないことである。

(三)  当裁判所の心証

原告夫婦の供述自体の信頼性はこれを否定的に評価すべき理由はなさそうである。

原告が日頃交通事故の発生を非常に危惧していたことと現実に発生した事故に対する関心の度合(例えば、下車時に登録ナンバーをメモしなかつたことなど)とは一見結びつき難いものがあるようにも思われるけれども、その当時は大事に至らなかつたように見受けられたものであるし、事情が事情だけに待たせていた人への顧慮が先立ち、本件タクシーに特別な注意を払う余裕がなかつたとしても、それはそれでありがちなことであろうから、特に採り上げるべき事柄ではなかろうし、右供述内容には――車内表示盤の空白という事態の異常さにもかかわらず――信頼性を疑わしめるようなものはない。供述態度も極く自然な印象を受けた。したがつて、右供述は採用に値すると一応いえる。

問題は、まずその心証度にある。右供述が当事者本人およびその配偶者のそれであつて経験法則上証明力の弱い証拠であることは、右の印象から言わぬとしても、立証手段自体、タクシー会社の社名を控えたという・通常のタクシー利用者の行動とはいささか趣を異にするところのものであるばかりでなく、社名を控えたのみなのであるから、特定の一車両に結びつく具体性を備えていないのであつて、要するにその社名のメモあることから本件タクシーが被告会社所有車なることを推認せしめようというに帰する。そしてこれを補強する証拠は皆無に等しい。例えば、車体の色は、被告会社のタクシーの場合パシフイツク・ブルーに赤色の部分が前後に少し混つた二色になつていることが小池証言によつて認められるところ、原告夫婦の供述は空色系統の色というのみで、原告本人は一色といい、証人勉はこの点確言しない。もつとも、甲第二号証の東京無線タクシーの部分と被告会社の部分とを同一機会に書き取れるのは被告会社のタクシーの車内ぐらいのものであろうと考えられるから、これを補強証拠的な間接事実に数えられぬこともないが、これとて他の可能性を排除するほど強い推測をなさしめるものではなく、特定の車両への結びつきのないことは同じである。結局、原告側の本証によつて得られる心証は、反証を顧慮しない限り証明度に達していると言えるけれども、いわば辛うじて立証しえたに止まるので、それほど高度のものになつていないのである。

そこで反証の問題となるが、これが極めて強力である。原告は具体的車両を特定せず、単に被告会社所有のある車両による加害を主張するのであるから、被告はこれを反駁するためには論理上被告所有の全車両が該当車両でないことを立証しなければならない。そして、被告側の反証は、先に見たように正に全車両についてなされているのである。当裁判所は、原告側が指摘した・顔写真の類似する二名に関係する文書のみでなく、反証文書の全部について一通り手掛りを捜索したが、結果を得られなかつた。例えば、乙第二号証の乗務詳細日報によれば、料金として一二六〇円という数字の記されている箇所が三箇所見当るのであるが、他の記載すなわち、発着地、時刻、乗客男女別人数等の記入と合わせると到底本件事故時の運行に結びつかない。換言すれば、原告主張の事故に符合する運行をした車両を乙第二ないし第五号証から選び出すことができないのである。また車内表示盤の点も反証のいい分の方がもつとものように思われる。むろん、本件反証文書は、認可車両数に関する乙第六号証を除いて、すべて被告会社の手中に属するものであり、すべてが真実を物語るという保障はない。例えば、運転者が、なんらかの理由から乗務詳細日誌に事実に反する記入をすることもありえようし、メーターの構造上もそれが必ずしも不可能でないことは証人小池の証言からうかがい知ることができるのである。そして、追突事故は、実際には発生しなかつたのかもしれないし、あるいは容易に発見できないような軽微な破損を与えたにすぎなかつたのかもしれず、車内表示盤が空白のまま走行するタクシーはなかつたと断定することもできないであろう。しかし、問題は、そのことだけを理由にこの反証を一蹴しさることができるかどうかである。被告は、本件タクシーの特定に必要と思われる資料を全部開示したのであり、この種の事案に対処した場合、恐らくこれ以上防禦の手段方法はないといえるのであるから、この反証をことさらに過少評価することは許されないであろうし、前記本証による証明の程度からいつて、争点につき証明責任を負う原告において本証を追加することも、反証を具体的に弾劾することもできない以上、この反証は成功しているといわざるをえない。

右の次第で、先の本証による当裁判所の心証は、反証により大幅に動揺し、結局本件は、右争点につき原告の立証不十分であるということになる。

三以上の理由により、原告の本訴請求は、原因理由なきに帰するから、損害の審理に入るまでもなく、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。(倉田卓次 並木茂 小長光馨一)

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